元スキージャンプ選手 原田雅彦の妻としても、一人の女性としても、
堂々と胸を張ってアラフィフからの人生を
モデルKEIKOとしてスタートさせるまでのドキュメンタリー風エッセイ

本書の読みどころ

夫を支え、家庭を守ってきて、子育てが一段落したときに感じた
胸の内に向き合うことになった私・恵子。
日本中に感動を残した長野オリンピック時のスキー団体競技金メダル獲得に
至るまでの妻としての心の葛藤や、夫・原田雅彦の素顔にも触れています。

後半は、モデルを目標にするまでの心の変化について記しています。
モデルとして活動したことなんて全くない私が、なぜそれができたのか?
誰でも年齢に関係なく、いつでも自分が好きなことを始められます。
この本が、子育てが終わり、新たな生き方を模索している女性の参考になれば幸いです。

著者紹介

今を積み重ねて未来を創る
年齢を言い訳にしない自分の育て方

原田 恵子

一九六九年北海道生まれ。元スキージャンプ選手の原田雅彦を夫に持ち、一男一女の母親として、長年専業主婦として夫を支える。心理学を学び、自分の本当の気持ちに気づいて行動を起こし一年経たないうちに、モデルデビューを果たす。フォーカスとチャレンジをモットーに自分の価値観を変え、存在価値を高めている。自身の経験を元に、女性の人生のステージが変わる時に生じる迷いや不安を力に変え、前向きに行動するための情報発信を行う。モデル事務所Jeepers(ジーパーズ)所属。

リレハンメルオリンピックから始まった闇

リレハンメルオリンピックでの夫のジャンプは、世紀の失敗ジャンプと呼ばれています。世紀の大ジャンプではなく失敗ジャンプ。できれば忘れて欲しい呼び方です。もう二十四年も前のことですので、今では覚えている人も少ないし、長野オリンピックの金メダル獲得の記憶の方が大きいかもしれません。
ですが、長野オリンピックまでの四年間、私たち夫婦にとっては深い闇の始まりとなりました。今となって振り返ってみれば、リレハンメルオリンピックの失敗があったからこそ、夫の成長につながり、私たち夫婦の絆を深めることにつながったと思います。そして、失敗があったからこそ、長野オリンピックの金メダル獲得が大きな感動を呼び、原田雅彦の名前が多くの人の記憶に刻まれることになったのでしょう。しかし、その当時の私たちにとっては、とても悔しくて悪夢のような出来事でした。

オリンピック当時の記憶が薄れている方もいらっしゃると思いますので、当時の状況を説明します。
一九九四年二月二十二日。夫が普段通りのジャンプを飛べば、日本ジャンプ陣は悲願の金メダルを獲得というところまで来ていました。求められていたのは一〇五メーター以上のジャンプです。当時の夫は、前年の世界選手権ノーマルヒル個人で笠谷幸生選手以来、日本人として二十一年ぶりの優勝をつかみ取り、翌年の冬季オリンピックに向けて大きな期待をかけられていました。
当時私たちは新婚ほやほや状態。シーズンオフの四月にプロポーズされ、十月十日の体育の日に入籍。ウィンタースポーツ選手ですから、結婚式はオリンピックが終わって、春になっていろいろ落ち着いてから式を挙げる予定にしていました。入 籍を早めたのは、新居のアパートの契約上の都合です。オリンピック直前の夫は、ほとんど海外遠征へでかけていました。2DKのアパートで実質的な新婚生活が始まったのは、翌年の春からでした。

Close